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2005年12月30日 (金)

[番外]一年の終わりに。

今年はこれで記事作成の最後にしようと思います。
アクセスログがないので,どのくらいの方々がここを訪れて頂いたかは存じ上げませんが,コメントやトラックバックを頂いた方々はもちろん,来て頂いた方みなさまにお礼を申し上げたいと思います。どうもありがとうございました。

一年を終えるに当たり,明日,機会を作れそうですので靖国神社に参ってみたいと思っています。実は一度も参ったことがありません。靖国問題に関しても何度か記事を書きましたが,行ったこともないのにあれこれ言うのも僭越ですし,前々から一度行きたいと思っていたのです。

また,来年も愚文をだらだらと垂れ流すことになろうかと思いますが,ご意見,ご指導を頂きたいと思います。

それでは,来年は今年よりも,より多くの人々が幸福を感じられるよう,また,やむなく不幸を感じておられる方はそれが少しでも和らげられるような一年となりますようお祈りいたしますので,どうぞ良いお年をお迎え下さい。

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戦争指導者達は責められるべきなのか?(その2)

前回の記事で紹介した半藤一利著「日本のいちばん長い日」の中で,とても印象に残ったフレーズがあった。
降伏を阻止しようとする青年将校が,上級将校に賛同してもらうべく説得するときの台詞である。

原文のまま引用させて頂く。
「それなのに,形式的にでも皇室がのこればいいとする政府の降伏主義に私たちは反対するのです。皇室の皇室たるゆえんは,民族精神とともに生きる点にあるのです。形式ではないのです。閣下,形骸にひとしい皇室と,腰ぬけの国民と,国土さえ保全されればそれでいいという”政府の国体護持”は,つまるところ皇室の名を利用する自己保存でしかないと看破すべきなのです。」

同書を読む限り,昭和天皇の気持ち,また,当時の内閣のおそらく多くのメンバーの意図に対し,この青年将校の指摘は当たっていない。また,この将校と類似の考えを持っていた人たちや,考えは違っても当時真剣に国のことを想っていた人たちが,戦後に取った行動についても,おそらくこの指摘は当たっていないのではないかと想像する。
しかし,戦後60年を経てこれらの人たちの影響力が薄まった近年,この青年将校の指摘が,当時の人々の意図とは無関係かも知れないが,結果的に実際のものとなりつつあるようにも思えるのだが,どうだろうか。

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戦争指導者達は責められるべきなのか?

映画「男たちの大和」を観た。また,半藤一利著「日本のいちばん長い日」を読んだ。そして感じたことがある。

先の戦争に関し,八木哲郎氏のブログ記事のように,
>戦争の末期状態になっても戦争をやめる決断ができなかった無能な最高戦争指導部
は責められるべきとする論調は多い。

果たしてそうだろうか。

もう終わろうとしている今年は,戦後60年である。軍隊経験者でご存命の方は,ほとんどが当時二十歳前後以下の方々であろう。
「戦争を知る世代」の方はほとんどが先の戦争に関し,受動的立場であった方々であろう。
昨日テレビで渡邉恒雄氏が首相の靖国参拝を批判するに,「小泉首相は戦争を知らない,自分は元陸軍二等兵だ」と話されていた。
主動的立場であった,例えば軍隊では下士官以上の方々の意見に直接触れることはもうほとんどできない。

「男たちの大和」で見る下士官・士官たちの純粋に国を想う精神,「日本のいちばん長い日」で読む指導者たちの国を守りながら,また,血気盛んな若者たちを抑えながら終戦する方策を探る苦悩,これらからは,それぞれ当事者はそれぞれの立場でそれぞれの信念に基づいて全力を尽くした場合が多かったのではないかと感じる。

戦争を肯定するつもりはない。先の戦争が正しかったかどうか,自分は結論を出していないが,ここでその議論をするつもりもない。

ただ,今の日本人は,政治家,財界有力者や自分を含め,彼らほどの情熱,責任感,道徳心などを持っているとは思えないのだが,どうだろうか。

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2005年12月25日 (日)

完全な政教分離は可能か?

いつも興味深く読ませて頂いているレッツらさんのブログの「政教分離って何?」という記事を拝読してから,何となく心に引っかかっていたことがあり,徒然なるままに考えるところを書いてみたい。この辺りのことに関しては,レッツらさんとはやや意識が異なるかも知れない。

日本人は,形式的には仏教と神道を信仰しているような生活を送る人が多い。初詣,厄払い,初宮参り,仏式の葬式,戒名,法事などなど,特定の宗教を強く信仰している人以外は,大抵これらが生活の一部になっている。
自分自身も,特定の宗教を信仰してはいない。結婚式も,全く宗教色を除いて人前式で行った。(指輪の交換はしたが,これが宗教的な行為ならば,これだけは例外として。)
だから,自分は信心深い人たちの心の内はよくはわからない。しかし,自分は技術系の職を持つ人間であり,自然の理の美しさを感じることはよくある。何か人智を超えた力によって意図的に創造された,または制御されていると考えた方が納得しやすいことが,自然現象には多い。信仰心を持たない人たちは,これを偶然の産んだ奇跡と捉える。自分も基本的にはそうであるが,信心深い人達,特に物心がつく前から,神などの超自然的な存在を説かれて育った人たちは,その存在によって想像・制御されているという考えを極めて当然のものと捉えるだろう。宗教の教義は,信仰する人にとって,実在の世界の真理そのものなのであろうと想像している。

しかし,日本の,特定の信仰を持たない多くの人たちは,宗教を「ものの考え方の流儀」のように捉えているのではないだろうか。レッツらさんは,件の記事の中で「宗教は個人が私生活をよくする目的で個人的に崇拝するには、意義のあるものだと思いますが、」と書かれているが,これもそのような意識に基づいているように感じられる。
「流儀」であれば,TPOに応じて抑制することが可能であろうが,「真理」であれば抑制には限界がある。信仰を持たない人同志でも,お互いに協調すべき場面で,一方が「石を投げ上げたからと行って落ちてくるとは限らない」と言われれば,特別な意味を込めた言葉でなければもう一方は否定せざるを得ないだろう。「投げ上げた石が落ちてくる」のは自然の真理だから,それに反する考えは否定するしかない。

複数の構成員から成る何らかの公的機関による特定の宗教の教義に則った活動を抑制することは,必要であり可能であろう。しかし,機関の構成員の個々人や,「内閣総理大臣」やその他の大臣など1名で成り立っている「機関」などについて,その者のすべての行為を「機関」による行為と見なして,あらゆる宗教活動を禁ずるということは,その者が何らかの信仰を持っている場合,その者にとって教義が真理なのであるから不可能であろう。法的にも信教の自由の侵害になろう。
政治家の場合,その信仰が公的活動の障害となると考えられれば選挙で選ばなければ良いのであって,選ばれてしまえば本人が信仰上どうしても曲げられない事に関しては容認するしかないであろう。

イスラム系のテロリストなどに関しても,少なくとも純粋に信仰している末端の信者が「真理」と信ずることに基づいて行うことに関しては,それを信者以外の者が制御することは極めて困難であろう。
宗教の対立は,現代社会に残された問題の中で最も難しいもののひとつであり,日本人の我々には最も考えを整理しがたいもののひとつだと思う。

そう考えると,公的な立場にある者についてその者が「真理」と信ずることに基づく行為を制限してまで,また,熱心な信者が多い国家において他の国家と協調できるように(かつ信教の自由を侵害しないように)国民を制御して,完全な政教分離を実現するのは困難ではないかと思うのだが,どうだろうか。

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2005年12月20日 (火)

野党は手を緩めず設計偽装事件を追及しきれるか?

かつてこのブログで,小選挙区制で民主党に勝ち目はあるか?と題した記事を書いた。
その中で,
「小選挙区制である限り,よほど大規模にスキャンダラスな問題を起こさない限り,(途中略)現在の与党が勝ち続けるのを止めるのは難しいのではと思うが,どうだろうか?」
と書いた。これには,「実際には無理ではないか」という思いを込めている。しかし,ここ数日のニュースを見ているとマンション構造設計偽造事件が大規模なスキャンダルに発展する可能性が感じられる。
このような情報(すべては検証していないが,googleの12月8日のキャッシュ国土交通大臣のプロフィールからわかるように,少なくとも一部は事実である)もあり,また,森派への献金などの件も取り沙汰されており,建設業界という政治と絡みやすい世界の事件であるため,芋づる式に様々な政治スキャンダルが暴かれるかも知れない。
もし,本当に大きなスキャンダルが隠されていれば,与党は目くらましに出るだろうが,野党が裏で手打ちせずに徹底的に追及すればそれをもはね返せるかも知れない。
そうなれば,有力議員に取りすがる地方社会も,政治家と関係を深くすることにリスクを感じてこれまでとは違う動きを見せるかも知れない。

もしそうなれば,小選挙区制が味方して一気に民主党が優勢になる可能性もあると思うが,どうだろうか。

なお,自分は民主支持者ではなく,民主党政権を願っているわけではない。現時点では,どういう政権が望ましいか,自分としての答えは持っていない。

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2005年12月19日 (月)

[番外]ブログタイトルの意味

番外記事として,ブログのタイトルの意味について少し書きたいと思います。
私は政治や経済については全くよくわかりません。子供の頃から理系人間のせいもあり,就職するころまでは興味もほとんどありませんでした。学校での社会科学系の科目の成績も小学校から大学まで良くありませんでした。
ですから,日々のニュースなどを見ていてもわからないことだらけです。それでも,だいぶ年を重ねてきたので,それなりに思うことはあります。
そこで,「こうじゃないかと思うけれど,確信が持てない」ことを書いてみて,皆さんの意見をもらおうと思ったのです。「答えられることはありません。尋ねるばかりです。」という意味で「Q&Q」です。
特に,多くの人はああ言うけれど,自分はこう思う,そしてもし自分が正しければ自分や自分の大切な人たち,ひいては全国民が不幸になる,と思うようなことが多く,居ても立ってもいられなくなったのです。
掲示板よりブログの方が節度のある意見交換ができそうなので,予備知識がほとんどないままにブログを始めました。

賛否共に,いろいろな意見・ご指導を頂きたいと思います。よろしくお願いいたします。

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税金は「ムダ」に使われているのか?

「国の借金」問題については,折に触れて情報を見るのだが,何分「ド素人」なのでよくわからない。
そこで,極めてシンプルに考えてみた。有識者の方にご指導頂ければ幸いである。

借金が何百兆,税収が何十兆,桁がちがう。
国の歳出80兆,税収40兆,バランスしていない。

単純に考えれば,歳出をどんどん削減し,税収をどんどん上げなければならない。果たしてそうだろうか。

「税金を使う」と言っても,ドブに捨てるわけではない。基本的には国民の収入になる。

歳出と歳入がバランスしていれば,歳出を減らすと同時に減税することにより,市場で回るカネが増え,官を経由するためのコストが減り,その分が民間の経済活動に回される。

しかし,歳出・歳入が現在のように極端にアンバランスの場合,歳出を削っても減税はできない。歳入を超える歳出の分は,なにも政府が紙幣を印刷して作っているわけではなく,結局国民の「ゆとり」の部分から借りているわけである。

「歳出を減らす」
 ↓
「国民の収入が減る」
 ↓
「ゆとりがなくなるが,借金の必要も減る」
 ↓
「国の借金が減る」

ということだろうが,それならば「ゆとり」の大きい者ほど収入を減らす必要があろう。
よく,「税金のムダ遣い」として公共事業や公務員給与が挙げられる。
公共事業では,一部の大手建設企業なども儲かるが,下請け以下の中小企業や末端の作業員の給料にもなる。公務員給与は,一部の高給取りエリートを除いて大して貯蓄する余裕もないので大部分は食費や生活費など,一般国民の収入に回る。
「ムダ遣い」と言われているものを単純に減らせば,これらの人々の収入が減るわけである。

「ゆとり」の大きい者ほど収入を減らす方策無しに「ムダ遣い」を減らせば,割りを喰うのは「ゆとり」の少ない者だろう。「ムダ遣いを減らせ!」とヒステリックに騒ぐ人たちはそのことを考えているのだろうか。

「ムダ遣い」と言っても,作られたもの等が「ムダ」なだけであって,カネは「ムダ」になったわけではなく別の場所に回っただけである。また,歳出・歳入がアンバランスな以上,歳出を減らしても税金が減るわけではない。
そのことを一般国民はよく考えて行動するべきだと思うが,どうだろうか。

「だからこそ痛みを伴う改革が必要」といわれるかも知れないが,「ゆとり」から借金してさらに「ゆとり」を生み出してきたわけであるから,「ゆとり」の大きい者ほど大きな痛みを負担するべきだろう。「ゆとり」の大きな者のおかげで「ゆとり」のない者が「ゆとり」を持てたのだからそれを返せというのが,現在行われている改革のように思う。しかしそれは,国民全員にゆとりを持たせようとした先人の努力を無にすることではないだろうか。

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2005年12月18日 (日)

昭和天皇が終戦を遅らせたのか?

いつも取り上げさせて頂いているレッツらさんのブログの皇室典範に関する有識者会議に関する記事のコメントとして,昭和天皇について少し言及させて頂いた。それを書いた後,昭和天皇と先の大戦との関わりについて少しWeb上を見て歩き,どうしても気になることがあったので書いてみたい。

googleで「昭和天皇 "戦果を挙げて"」と検索すると,近衛文麿が「敗戦必至,早急に和平を」と上奏したのに対し,昭和天皇が「もう少し戦果を挙げてから有利に交渉を進めよう」と戦争継続にこだわった,そのために原爆投下や沖縄戦の悲劇が起きた,その責任は昭和天皇にある,との情報が多数発信されているのがわかる。
この情報は正しいのか?

それらの情報を発しているWebページのほとんどは,近衛公爵と昭和天皇とのやりとりを抜粋で紹介している。こちらこちらなどに,そのときのやりとりがすべて示されている。
たしかに,昭和天皇は「もう一度、戦果を挙げてからでないとなかなか話は難しいと思う。」と言われたようである。

しかし,やり取りのすべてを通読すれば,自分には要するに以下のようなやり取りにしか思えない。

近衛公爵 「敗戦は必至だが,米英は天皇制を中心とする日本の根本的な形の破壊までは考えていないようだ。心配なのは敗戦に伴い共産革命が起きることで,軍部にそれを狙う勢力がある。早急に戦争終結を図るべきだが,その前提として軍部の改革が必要である。」

昭和天皇 「軍部は,アメリカは国の形までも変えようとしていると言っているが。」

近衛公爵 「それは軍部が戦意昂揚のために国民をだましているのだが,かといってこれ以上戦争が長引くとアメリカも考えを変えるかもしれない。」

昭和天皇 「軍部の改革といっても具体的にどうするのか。」

近衛公爵 「大改革も一案だが,戦争中にあまり大きな改革を行うのが危険であれば,山下奉文大将を軍の立て直しに当たらせるのがよろしいかと。」

昭和天皇 「それには,山下大将がもう一度戦果を挙げないと難しいのでは。」

私は歴史に疎いので関連する情報の知識がないが,すくなくともこのやりとりの原文をみる限りは上のようにしか解釈できない。
つまり,
「近衛公爵の和平上奏→昭和天皇の戦争継続意志表明」
とされているのは全くの誤解で,
「近衛公爵の軍部の新指導者提案→昭和天皇の理由の立つ功績がある新指導者でないと困難との意見」
というやり取りだと思う。

このやり取りをもって昭和天皇の責任を追及しようとするのは,前後の脈絡を省略して一部の発言のみを取り上げて情報操作しようとする,常日頃マスコミなどでよく目にする手法だと思うのだが,どうだろうか。

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2005年12月14日 (水)

みずほ証券の誤発注はシステムに問題があるのか?

みずほ証券の株誤発注の件で、みずほ証券や東証のシステムで未然に防げなかったことが問題にされている。
「人間」の責任が曖昧にされてはいないか?
まず、レッツらさんのブログのコメントに書かせて頂いたように、「1円」の株に群がる人間たちはどうなのか。
これについては、やはりレッツらさんさんも取り上げているように金融担当相の発言などでかなりの額の損失が返還されるようで、少しは人間味の感じられる方向へ向かっているようである。

ところが、東証のシステムに「欠陥」があったということで、東証の責任も問われている。
できるだけ人的ミスをカバーできるに越したことはないかも知れないが、完全に防ぐことは不可能である。さらに、安全弁を重ねれば重ねる程、人が油断するとともに、安全弁が破れた時の被害が大きくなると思われる。

一瞬のミスが重大な事態に継がる仕事はいくらでもある。そのような仕事のプロ達は、それに相応しい訓練と心構えを備えているべきであるし、大部分の人達は実際にそうであろう。

今回の事件に関して、ちょっとした指先の動きで何百億もの損害を出す可能性を、担当者やみずほ証券が全く予測できなかったということはないはずである。
様々なテクノロジーが発達して、人間が様々な危機から遠ざけられるのは基本的には良いことだが、実は「すぐそこにある」危機をしっかり認識することにもっと注意を払うべきだと思うのだが、どうだろうか。

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2005年12月 7日 (水)

「1リットルの涙」は無駄になってしまうのか?

1リットルの涙」というタイトルのテレビドラマが放映中である。同名の本を原作とするものである。
自分は2回しか見ていないし,原作も読んでいないので作品の論評はしない。

このタイトルは,25歳で生涯を閉じた原作者,木藤亜也さんの,障害のある身体をご自身できちっと受け止めて生きようと思われるまでに「1リットルの涙が必要」だったという言葉に由来している。

「合理化」の名の下に,レッツらさんも懸念されているような社会の弱肉強食化がこのまま進んでいくと,木藤さんのような人は生きる価値を認められなくなるのではないか。
浅薄な「合理的」思考をすれば,周囲に負担をかけ,一般的な勤労が不可能な人間は社会にとって不要である。
しかし,人間は非常に複雑な精神構造を持っている。木藤さんの生きる姿に,人それぞれ,様々な感情を持つであろう。そのとき,その感情が心身にとってマイナス要因となる場合があるだろうか。
ご家族の気持ちは,あまりにも想像できる域を超えているので自分に論ずることはできないが,少なくとも自分のような全く無関係な人たちは,得ることは多いだろう。
広い意味での「多様性」の効能のひとつではないだろうか。
直接ご本人と関わりを持つ人たちからドラマを見るだけの自分のような人まで,木藤さんに注目することで,精神的なものだけに留まらず,科学や文化の発展につながるようなことまで,多くを得ることができる。
木藤さんを中心に,神経細胞システムのように,極めて複雑な経路・因果を辿って世界中に様々な効果が及ぼされる。
木藤さんが「1リットルの涙」を乗り越え,その後もさらに涙を流しながら懸命に生きたことで,その効果は益々強まったに違いない。
このようなことのメカニズムはそう簡単に解き明かされるものではない。
浅薄な「合理的」思考では,「わからないこと」は「考慮に値しないこと」として,その効果を期待しない。よって,その原因となることは必要とは認められない。
存在の価値を認められなければ,木藤さんのような人は決定的に「弱者」である。

このままでは,「1リットルの涙」が無駄になるのではと不安なのだが,どうだろうか。

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2005年12月 5日 (月)

日本にまだ希望はあるか?

今日の読売新聞に,「働き盛り世代の海外移住が増えている」という内容があった。
いくつかの例が記されていたが,基本的にはゆとりがなく希望の持てない日本よりも,他の国で生きることを選んだ人たちのようだ。

自分も若い頃,将来の方向を決めるに当たって,「日本を捨てるか否か」を真剣に考えたことがある。単に度胸がなかっただけかも知れないが,まだ日本には希望があると考え,日本で働くことを決めた。
今,若い頃の自分が同じ事を考えたら,結論は違っていたかも知れない。

しかし,このブログを始めたことをきっかけに,いろいろな人のブログを拝見し,まだ僅かながら希望はあると感じている。

ただ,不安のひとつは皇室の件である。
自分は,国民が皇室への畏敬と親しみの念を持つ間は,まだ日本に希望はあると思っている。皇族の方々の人格や振る舞いを範とすべきものと考える内はまだ望みがあると思う。
masasan さんのように,女系天皇容認でも,ご自分の心の中での皇室の位置づけは揺るぎないものをお持ちの方も多くおられるだろう。
皇室典範に関する拙速な論議に多くの国民が異を唱え真剣に考えるなら,日本もまだ捨てたものではないと思うが,どうだろうか。

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2005年12月 4日 (日)

健康保険の負担引き上げは弱者イジメか強者イジメか?

健康保険の本人負担増率の動きが強まっている。
rosso_fiolencino さんのブログ記事のように,これを国民に負担を強いる,または弱者イジメなどの改悪と捉える論調は多いが,果たしてそうだろうか。

自分は,浅薄な知識で考えるところ,この動きには基本的に賛同する。

自分は基本的になるべく病院には行かないようにしている。

自分はよく,病院で支払いを済ませた後,負担率で割り戻して実際の医療費を計算してみて,間接的ではあるがその金額を負担したのだと感じてみる。その感覚をなるべく大切にして,自分の中での「病院に行く」ということの位置づけを考える。
支払った金額だけを見ると,ちょっとした風邪や怪我の治療費など,多くの人にとっては大した額ではないだろう。薬代も同様であろう。さらには,多額の保険料を払っているのだから,「使わないと損」という考えを持つ人もいるだろう。負担の少ない高齢者は尚更である。
医療関係者の一部,それもかなりの割合は,そのような状況の上にアグラをかいてはいないか。
医師が自分の知識や技術をもっともっと高めようとする努力を怠るようなことはないか,医療機器や製薬会社などが不公平に高い利益を得ていたりしないだろうか。

また,自分は病院での待ち時間が長いことが不満である。
軽い異常ではなるべく病院には行かず,不安が大きいときに受診するのに,(やや言い過ぎかも知れないが)寝ていれば治りそうな人や薬局で薬を買うだけでも良さそうな多くの人に待たされるのは辛い。それも病院に行かない理由のひとつであるし,自分が待たせる側にできるだけならないためにも,行く必要があるかどうか,よく考えるようにしている。

今,医療を取り巻く状況は改善を要しており,その手段としては,少々荒療治ではあるが本人負担の引き上げというのが現実的な選択ではないかと思うが,どうだろうか。

ただ,そのために病院などの経営状況が悪化し,看護士などは労働環境が劣悪で相応しい報酬を得られなかったり良い人材が集まらなかったりする状況が悪化することが懸念されるので,そのための対応は必要だと思うが,これは少し問題の質が違うかととも思う。

また,念のために書くと,自分は小泉内閣支持派では全くない。ただ,確信犯的独裁志向の小泉改革の中で,数少ない価値ある改革ではないかと思っている。

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