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2005年12月25日 (日)

完全な政教分離は可能か?

いつも興味深く読ませて頂いているレッツらさんのブログの「政教分離って何?」という記事を拝読してから,何となく心に引っかかっていたことがあり,徒然なるままに考えるところを書いてみたい。この辺りのことに関しては,レッツらさんとはやや意識が異なるかも知れない。

日本人は,形式的には仏教と神道を信仰しているような生活を送る人が多い。初詣,厄払い,初宮参り,仏式の葬式,戒名,法事などなど,特定の宗教を強く信仰している人以外は,大抵これらが生活の一部になっている。
自分自身も,特定の宗教を信仰してはいない。結婚式も,全く宗教色を除いて人前式で行った。(指輪の交換はしたが,これが宗教的な行為ならば,これだけは例外として。)
だから,自分は信心深い人たちの心の内はよくはわからない。しかし,自分は技術系の職を持つ人間であり,自然の理の美しさを感じることはよくある。何か人智を超えた力によって意図的に創造された,または制御されていると考えた方が納得しやすいことが,自然現象には多い。信仰心を持たない人たちは,これを偶然の産んだ奇跡と捉える。自分も基本的にはそうであるが,信心深い人達,特に物心がつく前から,神などの超自然的な存在を説かれて育った人たちは,その存在によって想像・制御されているという考えを極めて当然のものと捉えるだろう。宗教の教義は,信仰する人にとって,実在の世界の真理そのものなのであろうと想像している。

しかし,日本の,特定の信仰を持たない多くの人たちは,宗教を「ものの考え方の流儀」のように捉えているのではないだろうか。レッツらさんは,件の記事の中で「宗教は個人が私生活をよくする目的で個人的に崇拝するには、意義のあるものだと思いますが、」と書かれているが,これもそのような意識に基づいているように感じられる。
「流儀」であれば,TPOに応じて抑制することが可能であろうが,「真理」であれば抑制には限界がある。信仰を持たない人同志でも,お互いに協調すべき場面で,一方が「石を投げ上げたからと行って落ちてくるとは限らない」と言われれば,特別な意味を込めた言葉でなければもう一方は否定せざるを得ないだろう。「投げ上げた石が落ちてくる」のは自然の真理だから,それに反する考えは否定するしかない。

複数の構成員から成る何らかの公的機関による特定の宗教の教義に則った活動を抑制することは,必要であり可能であろう。しかし,機関の構成員の個々人や,「内閣総理大臣」やその他の大臣など1名で成り立っている「機関」などについて,その者のすべての行為を「機関」による行為と見なして,あらゆる宗教活動を禁ずるということは,その者が何らかの信仰を持っている場合,その者にとって教義が真理なのであるから不可能であろう。法的にも信教の自由の侵害になろう。
政治家の場合,その信仰が公的活動の障害となると考えられれば選挙で選ばなければ良いのであって,選ばれてしまえば本人が信仰上どうしても曲げられない事に関しては容認するしかないであろう。

イスラム系のテロリストなどに関しても,少なくとも純粋に信仰している末端の信者が「真理」と信ずることに基づいて行うことに関しては,それを信者以外の者が制御することは極めて困難であろう。
宗教の対立は,現代社会に残された問題の中で最も難しいもののひとつであり,日本人の我々には最も考えを整理しがたいもののひとつだと思う。

そう考えると,公的な立場にある者についてその者が「真理」と信ずることに基づく行為を制限してまで,また,熱心な信者が多い国家において他の国家と協調できるように(かつ信教の自由を侵害しないように)国民を制御して,完全な政教分離を実現するのは困難ではないかと思うのだが,どうだろうか。

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コメント

本当によく読んで頂いていてありがとうございます。書かれている内容は、すべて納得して読ませていただきました。おそらくWontBeLongさんは私が書くコメントも想像なさっているのではないかと思うくらいです。

>宗教の教義は,信仰する人にとって,実在の世界の真理そのものなのであろうと想像している。

宗教の教義がそのものであっても、それをもって他人の権利を侵害する場合は、人として阻止しないといけないと私は思います。宗教の教義によって世界すら滅ぼせてしまうかもしれません。ブッシュはイラク戦争のときに「神のお告げ」とか言ったとか、この前の広島の女の子殺害の犯人は「悪魔にささやかれた」だとか。宗教を理由にすれば、だれも立証できない神のお告げに基づいて人をたくさん殺せる。テロも同様です。それはなんとしても阻止したい!

宗教を使うと、どんな悪いことでもできてしまう。私が思う信教の自由は「自らの価値観を捻じ曲げられないレベル」であって、信教の自由によって「他の命を脅かしたり、他人の心を傷つけたりしする権利はない」と思うのです(当たり前ですよね)。


もしかして、ここがポイントでしょうか?靖国問題?
政教分離のところで靖国問題も書きましたが、政教分離に反するというつもりでもなく、「一般の人が理解しうる表現、納得しうる論理で話さないといけないですし納得しうる行動をとらなければいけない」という公人としての立場を説明したつもりでした。ちょっと変な書き方だったかもしれませんが、政教分離の趣旨って何だろうというところで「宗教を出して人を説得することは公の場では、信じてない人もいるので納得してもらえないのではないか」という点から、「公的な人はみんなが理解できる表現や論理で話すべきだ」と考え、その立場からすると靖国問題は、公的な人がやるには問題があるのでは?という感じです。憲法違反云々ではなく、公的な立場の人として、みんなが理解できる表現や論理で話すべきで、「そのうち理解される」というのでは、まずいのではないかという部分なんですが。

ちなみに、本質的に靖国参拝問題で私が問題にしているのは、日本人として、戦死された方々の真の願いは「子孫には自分たちのように戦争で命を落としてほしくない」と考えられているのではないのかなあ、だったら軍国主義を感じさせる神社を肯定してほしくないかもしれないなあという思いからです。戦争で戦っているときは、日本のために!と思われてても、いざ戦死した後は、日本のために亡くなったんだから、みんなで私を崇拝してよ!じゃなくて、家族や奥さんや子供を残したことが気がかりだっただろうなという推測です。残った子供には、もう二度と戦争に行ってほしくないなと願われてるのではないかという私の思いです。まあ、人それぞれかもしれませんが、私はそう考えました。
「靖国で会おう」靖国問題
http://brilliant.air-nifty.com/nikki/2005/10/post_9cc4.html

疑問のポイントが靖国問題だったら、これ以上は書けません。というか、私自身がまだきれいに頭の中でまとまっていないところがあるからです。正直、逃げてます。この問題からは。書きにくいんです。私も先祖や日本の祖先を敬う心があるので、それを言われると、どこかで間違っている気がするのに、自分自身の価値観が混乱するのです。間違っているとする点は、本質的と書いた部分です。でも、書きにくいんです。私も亡くなられた戦死者の方々の思いという立証できない話な部分があるからです。こういう部分は誰でも納得しうる話で書けない。だから、頭の中でまとまらない。そんな感じです。


完全な政教分離は可能か
しかし、政教分離は必要だと私は思います。完全・不完全、可能か不可能かではなく、みんなの努力で。最低限、守らないといけない価値観として。同じことを繰り返しますが、宗教を理由にすれば、だれも立証できない神のお告げに基づいて人をたくさん殺せる。それはなんとしても阻止したい!

>熱心な信者が多い国家において他の国家と協調できるように(かつ信教の自由を侵害しないように)国民を制御して,完全な政教分離を実現するのは困難ではないかと思うのだが,どうだろうか。

まさに困難です。おっしゃるとおりです。だからこそ、世界レベルでの価値観の共有が必要だと私は思っています。それは宗教をベースにするのではなく、人として最低限守らなければならないことは、みんなある程度共通するんじゃないかなという思いからです。そういう思いで書いた記事に「人の命の重さ」があります。もしよろしければ、ご一読ください。いや、もう読まれてるかもしれませんね。
人の命の重さ
http://brilliant.air-nifty.com/nikki/2005/12/post_d698.html


毎回、長文になってしまって申し訳ないです。

投稿: レッツら | 2005年12月25日 (日) 13時28分

丁寧なコメントありがとうございます。
考えをまとめずに「従然なるままに」書いてしまったのですが,書いてる間の心の動きを読み取られてしまいましたね。
ポイントは靖国ではないのです。しかし,書いてるうちに少し焦点が靖国へ行ってしまいました。
結果的に靖国も少し間係しますが,元々のポイントは,
>人として最低限守らなければならないことは、みんなある程度共通するんじゃないかな
という点が,果たしてそうだろうか,ということです。私も答えは出していません。(だからこのブログに書くのですが)
こういった考え方は,信仰と縁遠い日本人だからできるのではないのではと感じているのです。
何のためらいもなく自爆するイスラム信者の人たちを,単に非道のテロリストとして片付ける資格が我々にあるのだろうかと疑問を持つのです。
自分の子供への輸血を拒み死なせてしまう行為を,犯罪行為と非難できるのだろうかと。
人間の「幸福」は完全に「心」の問題ではないでしょうか。「健康に長生き」することを「幸福」とするのも,ある意味で宗教のようなものではないかと思うのです。「死ぬべきときに死ぬ幸福」や「戦うべきときに戦う幸福」などというのも,大部分の日本人が理解できないだけであって存在するのではないかと思うのです。そしてそれらは信じる人達には「真理」であって如何なる理由によっても曲げる訳には行かないのではないかと。
靖国にも絡むことで言えば,一般人から召集された人ではなく,信念を持った職業軍人として戦死された人達は,自分の子孫にも,事有れば我が国のために立派に戦い,それに殉じても本懐とするべきと思われるのではないかとも思うのです。
じゃあどうすれば良いのか?私は分かりません。ただ,「日本式無宗教的」な考え方は,もしかしたらグローバルスタンダードからは外れているのではないかという懸念を持っているのです。
さらに言えば,靖国参拝を「する」,「しない」では,「する」方が実はグローバルスタンダードに適うのではとも思うのです。

投稿: WontBeLong | 2005年12月27日 (火) 00時00分

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 <Moreの部分を書き足しました。>  小泉首相が4日に行なった年頭の記者会見で、靖国神社参拝の「理解できない」発言 が物議をかもした。あまりにも呆れてしまったので、この件はやり過ごそうかと思って いたのだが(逆に書き始めると止まらなくなりそうだし~?!)、ストレスが貯まって しまいそうなので、思いっ切り書くことにした。<長文覚悟?!(・・)>  問題となった発言部分はこちらである。<官邸HPより> 「私はこの靖国の参拝の問題は外交問題にはしない方がいいと思っています。 ... [続きを読む]

受信: 2006年1月 9日 (月) 03時36分

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