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2006年5月29日 (月)

子どもの学力の二極化は格差社会が原因か?

子どもの学力について「勉強ができる子」と「できない子」の二極化が進んでいると感じている人が60%を超え、うち70%近くは「家庭の所得格差が原因」と考えていることが27日、有識者らでつくる「日本の教育を考える10人委員会」(委員長・佐和隆光立命館大教授)の義務教育アンケートで分かった。

とのニュースが伝えられた。

果たして,学力の二極化は所得格差が原因だろうか。

「因果関係」と「相関関係」は異なる。
高所得家庭の子弟の学力が高く,低所得家庭ではその逆だからといって,所得が原因とは限らない。

教育に金をかければ学力が上がるのなら,何十年か以前と比べると子供の学力は飛躍的に上がっているはずなのではないだろうか。

自分は格差社会化は進行していると思うし,その動きには否定的な考えである。

しかし,子供の学力の二極化には,格差社会化も絡んではいるだろうが,もっと他の要因も関係しているのではと考えるのだが,どうだろうか。

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2006年5月22日 (月)

サラ金の金利を下げると闇金が増えるのか?

5月18日の参議院の「行政改革に関する特別委員会」で,サラ金(消費者金融業者)の金利が高すぎるとの民主党前川清成氏の質問に対し,小泉首相が,「金利が高くても借りたいという人がいるのだから,難しい問題だ」と答えた。
確かに,法令で定める金利の限度を下げることにより,業者の多くが立ちゆかなくなって借りたい人に貸せなくなれば,高金利の闇金に流れる人が増えるだろう。しかし,現在の金利はそのようなギリギリのレベルなのだろうか。

サラ金業者は莫大な利益を上げ,テレビコマーシャルはひとつの番組中に複数のサラ金業者のものが流れるという現状である。
長者番付の最上位にも,各サラ金業者の社長が名を連ねる。

「金利が高くても借りざるを得ない」人たちは,サラ金業者の金利が高すぎて返済することができず,闇金に手を出してしまっている人たちが多いのではないだろうか。
ある程度金利を下げたからといって,サラ金業者の「貸すポテンシャル」が低くなって,正規業者から借りられなくなって闇金に走る人が増えるという事態にはならないはずである。

「金利の限界を下げると闇金がはびこる」というのは,前川議員が指摘するような業界と癒着した金融庁や政府の詭弁ではないかと思うのだが,どうだろうか。

中継ビデオ](上記のやりとりは21分経過ごろから)

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2006年5月19日 (金)

国民投票法案のメディア規制撤回は与党の譲歩か?

国民投票法案について,与党がメディア規制条項を設けないと,反対派に譲歩する決定をしたとの報道があった。
これは果たして「譲歩」だろうか?

メディアに最も強い圧力をかけられるのは政府・与党である。
そして,一般国民の意見をもっとも左右するのもメディアである。

与党は,メディアを規制しないことは,多少のリスクもあるがメリットの方が大きいと判断したのではないかと思うのだが,どうだろうか。

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2006年5月17日 (水)

小沢vs小泉党首討論は期待はずれか?

民主党代表の小沢一郎氏と小泉首相の党首討論があった。
小沢氏の静かな物腰に,「期待はずれ」のような論評が多いようである。
果たしてそうだろうか。

これまで,野党の党首や議員が速いテンポで突っ込んで,のらりくらりとかわされて,「いいようにあしらわれた」といった印象を与えることが多かったように思う。
それに比べ今日の党首討論は,小沢氏がゆっくりとしたペースで議論を進め,小泉首相もペースを合わせなければならない中で,小泉首相の無定見ぶりが露わになったように見受けられた。

自分は民主党は好きではないし,小沢氏も嫌いではないが好きでもなくよくわからないので,民主側に贔屓目に見たつもりはない。

しかし,「教育の責任はどこにあるか」と問われて「親だ」などととぼけた答えを返したり,「教育基本法改正案をよく検討されたい」と言われて「委員会に検討させる」と無責任な言い方をするなど,小泉首相は自分のペースに引き込むことができず,「中身」の無さがいつもに増してはっきりと露呈したように感じた。

やはり小沢氏は小泉首相にとって,それなりに「やりにくい」相手なのではないかと思うのだが,どうだろうか。

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2006年5月14日 (日)

小泉首相は確信犯か?

やや旧聞に属するが,5月9日,経済同友会が首相の靖国神社参拝自粛を求める提言をまとめたことに対し,小泉首相が「靖国は外交カードにはならない」,「財界からも商売のことを考えて『行ってくれるな』という声もたくさんあったが、それと政治は別だとはっきりお断りした」などと語ったという報道があった。

小泉首相に対する批判として,アメリカや財界の利益だけを考えているというようなものがあるが,果たしてそうだろうか。

この報道を単純に見ると,小泉首相は財界の利益に反することも行うように見える。

自分は以前から,小泉首相の言動に,深い思慮というものを感じていない。直感的な信念をただまっすぐに貫き通しているだけのように感じている。
例えば,靖国問題に関する彼の思考内容は,
・・靖国・・国に殉じた人を祀っている・・参拝する・・何が悪い?
以上のものではないように思える。

「大義のために小さな公約など問題ではない」,「自分にどこが戦闘地域でどこが非戦闘地域かなどと聞かれてもわからない」といった発言も,確信犯的なものだと感じる。

「確信犯」という言葉は,単に犯罪と知りながら故意に行うことを指すように世間では使われることが多いが,本来の意味は,自らの思想や信条に照らして正しいと信じて行う犯罪のことである。

小泉首相は,自らの問題言動を,何らかの思慮に基づいて非常識と知りながら故意に行っているのではなく,心底から正しいと信じているのではないだろうか。

自分は,一国の指導者たるべき人物は,シンプルなルールを貫くべきだとは思うし,世の中もそれを求めていたから,田中角栄氏以来の高支持率政権となっているのだろう。

しかし,シンプルなルールの背後には,多くの知識と経験から生まれた一貫した信念が必要だと考える。

小泉首相の場合,そのような信念があるわけではなく,このような場で用いるのは不適切であろう言葉をあえて使えば単に「狂っている」だけではないのかと思うのだが,どうだろうか。

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2006年5月 9日 (火)

日本人は経済格差を動機としなければモラールを維持できなくなってしまったのか?

「モラール(morale)」は,士気,勤労意欲のことである。
「武士は喰わねど高楊枝」という言葉が,武士など存在しない社会となっても存在する。
日本は,名誉や,更には良心だけでも動機としてモラールを高めることを,一般庶民が行うことのできる希少な国だと思う。いや,「国であった」と言うべきだろうか。
流行りの言葉で言えば,「品格ある国」であった。

格差社会を肯定する考え方が聞かれるのは,社会の下層にいる国民が,もっと大きな格差を付けられなければモラールを維持できなくなってしまったということなのだろうか。
または,社会の上層にいる者たちが,やはりもっと大きな格差を付けなければモラールを維持できなくなっているのだろうか。

貧乏でも,地味な仕事でも,社会を運営する一員として誇りを持って働くというような考え方は,また,高い能力や人一倍の努力を以て社会に貢献できることを,暮らしに困らない程度の収入でも,誇りに思い喜びを感じるというような考え方は,過去のものになってしまったのだろうか。

現在の日本における「格差」は,世界的に見れば大きなものではないだろう。
ゴールデンウィークの観光地は人であふれ,パチンコは30兆円産業である。自殺者が年間に3万人余りいるとはいえ,グローバルスタンダードでいう「下層階級」は日本にはまだまだ少ないだろう。

日本は,そのように格差がなくとも国民が高いモラールを維持している希有な国であった。「エコノミックアニマル」と揶揄されることもあったが,それは個人に対してではなく国に対してであり,大富豪が少ないのに国民が総体として「エコノミックアニマル」になれることは,誇るべきことであろう。

自分は,日本人は良くも悪くも「流れに逆らわない」国民性を持っていると感じている。
今,社会の「流れ」は格差がなければモラールが維持できないような方向へ向かっており,その「流れ」に乗ろうとしている国民が多いということなのかも知れない。
しかし,我々の子々孫々が幸福に暮らしてゆくためには,格差がなくともモラールを維持できる,国際的にはユニークな(これを「異常」と言えば聞こえは悪いが本質的に同義だろう)社会に戻す努力をすることが必要ではないかと思うのだが,どうだろうか。

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2006年5月 7日 (日)

教育にはもっと公金をつぎ込むべきはないか?

我が家の近所の小学校では,冷房どころかストーブもないと聞いて驚いた。
校舎も見るからに古びている。
親戚の子供の授業参観に,その子の親と一緒に行ったことがあるが,必ずしも良い授業とは思えなかった。
自分はゆとり教育の考え方には賛成だが,その真価を発揮させるためには,教師の側に学問の理解と創造性の面でかなりハイレベルな能力が求められると思う。これに対応できる教師はほとんどいないのではないだろうか。
ゆとり教育に限らず,単純に小学生や中学生に勉強を教えるに当たっても,自分が学生時代に家庭教師をしたときの経験や,現在,我が子に勉強を教えるときのことを考えると,それぞれの教科についてかなり深い理解がないと上手には教えられないと思う。
例えば,ものの長さの測り方ひとつをとっても,十進法,単位や整数と実数などの概念,長さから拡張して距離の測り方まで含めると,負の数の概念なども十分に理解していないと,子供にわかりやすく説明したり,つまずいた子供が何につまずいているかを見極めたりするのは難しい。

また,昨今問題になっている身勝手な理由で給食費を払わない親を擁護する気はないが,給食費や副教材費などが,家計にとって実際に大きな負担となっている家庭も多いだろう。

自分は,ニーズや緊急性が実際はあまり高くない公共事業などを景気や雇用の対策のために行うことに,必ずしも反対ではない。

しかし,その資金のほんの一部でも教育施設・環境の改善や,教員の数・質の向上に回せば,子供の教育環境は遥かに向上するのではないだろうか。
所管省庁が異なるから,そう簡単な話ではないことはわかるが,政府がその気になれば不可能ではないだろう。

所詮,社会は人間が作るものである。基本構成要素は人間である。
その人間を育成するための教育システムには,現状よりも,もっともっと資金をつぎ込むべきではないかと思うのだが,どうだろうか。

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2006年5月 1日 (月)

「機会の平等」の下での競争は社会の発展に有用か?

安部晋三氏などが「機会の平等」を強調している。
「機会の平等」の下での競争は,果たして公正な競争だろうか?

柔道やボクシングなど格闘技の多くでは,体重別にクラス分けして競技が行われる。
ゴルフ,ボウリングや将棋などにも,対戦者の実力差に応じて「ハンディキャップ」が導入される。
これらは,機会を不平等にして,結果の分布範囲を狭めるためのものである。

なぜこのようなことが行われるのか。それは,より多くの人が熱意や向上心を持って競技や対戦に取り組むためだろう。

「結果の平等」のために,小学校の運動会でみんなで手をつないでゴールするのでは,熱意も向上心も培われないだろう。かといって,「機会の平等」のために全学年混合で競争すれば,低学年児はやはり熱意も向上心も湧かないだろう。
このような小学校の例で言えば,5年生の足の速い児童が6年生に挑む機会を与えるのは良いことだろう。しかし,6年生の足の遅い児童が,低学年児童に勝つことで常に上位にランクされ,低学年児童の大部分が常に下位にランクされるのは,活気ある運動会とするためには良いことではないだろう。

良い政治とは,国民ひとりひとりの能力を十分に引き出すものであるべきである。

そのためには,実力の伯仲した者同士が整然としたルールの下で競い合う場を提供して,社会を活気あるものに保つことが必要ではないかと思うのだが,どうだろうか。

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